CONTEXT:
近ごろ実家に滞在しているから、子供のこととか老いについてとか考える。自分のできることが増えるにつれて親は色々なことが不自由になっていく。大人になるほど家族の出来事が古くなる。それについて「“家族”が年をとった」と思うようになった。対照的に、小さいこどもを連れた友達に会ったりすると、家族の開けた未来を感じる。
それはどこかで家族について、過去を重ねて見ているからかもしれない
じゃあ自分に子供がいるようになれば「家族」は若返るのかと言われればそんなことでもない気がする(親はいきいきするのかもしれないけど。いや別にいきいきしてないわけでもないが)
子供がいたらなんて考えてしまうのは、平穏な過去のリバイバルを期待しているのかもしれない。
友人たちが続々と結婚するのを聞くと、みんながみんなそんなリバイバルを望んでいるような気がしてくる。多様な幸せや生き方があってしかるべきだと思うけれど、そうしたい人は思っているより少ないかもしれない。
いやしかし、そんな再上映をうっすらと望んでいるかもしれない自分に気づいてぞっとした。
ipadで油絵について
いろんな絵画作品が記憶にあるけど、実物をみたことはほとんどない。本やネットの画像で見たものがほとんどだし、稀に実物を見ると今まで知っていたものが本当に写真でしかなかったことに驚く。
だから本などで絵画作品を見る時、世界のどこかに本物がある事を前提に見ているところがある。
ipadのアプリの油絵のブラシを使うと、油絵らしきマチエールがかける。でもこの絵にはずっと偽物という感じが残っている。レイヤー分けもできるし巨大な筆も使えるし筆を洗うこともなければ混色も自由。逆に、筆致や絵の具の厚み、キャンバスの厚みや額、なんならサイズも実在しない。この絵の本物を探してもどこにもない。
でも実際の今は、ディスプレイで見た視覚作品のほうが圧倒的に多い。インターネットにある膨大なイメージの行く先を考えると、それはどこか所存なさげに見えてくる。その様子はあり得た今を想像したり、自分の未来や老い先を考える感じと似ている。

DAVIDHOCKNEY [UNTITLED,456]2010
↑ホックニーがipadで絵を描いていたなと思い出して、はじめてみたipad油絵。とてもおもしろかった。