力加減と個性についてのある見解: December 21, 2020
CONTEXT:
自分らしさみたいなものにそれとなく自覚がある人は多いと思う。それは生活にしっかり影響している。
「朝はパン派」とか「本好き」とか「休日はアウトドア」とか。
そういったものを知らないうちに押し付けられたり不自然に獲得してしまうこともあって気をつけないといけないなと最近思うようになった。いや今回はそんな話をしたいわけではなくて、アイデンティティというより作風について。
作風といって思いつくのは「影響を受けたカルチャーは?」とか「好きなアーティストは?」とか「幼少期の印象的なエピソード」などなど。そういう話を聞いて「ああこの絵はそれでこういうテイストなのね」とか変に納得したりする。
そもそも、このしりとりみたいなやりとり(当webサイト)の仕組みもそういうことへの興味を反映している。(突然なにかつくるのではなくて、ひとつ前の投稿に呼応する。そのうえで、どういった文脈で成果物が出来上がっているのかわかったらおもしろいから説明してみてもいいよねというような)
でもこれも大雑把な解釈であって、作るものに影響を与えているのはもっと些細なことのほうが要素として大きいかもしれない。そのひとつは、生活におけるちょっとした力加減とかじゃないかと最近は思っている。
生活の力加減はあまり意識されないが、力加減には最弱がある。ボタンなら押せるぎりぎり、これ以上小さい力では押せない力加減。大抵は最弱よりも強い力を使うけれど慣れたものは小さい力で扱っている。例えばスマートフォンを操作する指の力加減とか、かなり省エネな気がする。しかしこれも人によって違うんだろう。
シャッターを切るときにボタンを半分押してピントをあわせる。重要な機能の割に微妙な操作を必要とする機構にびっくりした覚えがある。人の指はやはりかなり繊細に動かせるが、この半押しも難しい人もいるかもしれない(ハルクとか超サイヤ人みたいな)。書道の筆を運ぶ力加減も繊細で、書もそれでかなり変わる。(悟空の書はどんな感じだろう)
繊細な力加減が必要なものの話で、機械のアームで卵を持つのはとてもむずかしいと聞いたことがある。いつもと違う卵を買ったら殻がとても薄くて持って潰したことがある。
たまに物を持てる最弱を試してみる。「ドアを閉める時、後手で最弱の力加減で閉めると数歩歩いたくらいで静かにカチャリとドアが閉まる」みたいなことである。
最弱を基本として、プラスどのくらいの力で物を持っているのか。それはその人らしさ・作風を形作る大きな要素かもしれない。(つまりそれはあとから変えることができる)