パーティーにはマンネリズムが巣食う: April 26, 2021
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Charcoal drawing 500mm*650mm
CONTEXT:
地元について考え出すと、どす黒い感情が頭をもたげて、気分が落ちてしまう。厭世的すぎるかもしれないけれど、なるべく正直に向き合ってみようと思う。
私の実家は千葉県市川市。都心まで3、40分の所謂郊外にある。
小学校、中学校、デパート、図書館、映画館、病院、駅。必要なものは家から1キロ圏内にすべて揃っている。まるで、『健康で文化的な最低限度の生活』とでも言いたげな街。ある時ふと、「そうか、ここは人間の“巣”なのだ」と思った。
↓↓↓思春期の回想↓↓↓
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街を流れる深緑色の川が悪臭を放つ。いつものことだから、誰もあえて口にしない。小さい公園と大きな住宅展示場。小学校にいる1000人の子どもたちは、放課後デパートやマンションで遊び、その大半が300m先の公立中学校に進学する。成熟するヒエラルキー。部活動の朝練では、顧問が生徒を罵倒し、授業では生徒が教師を無視している。いじめが蔓延する校内において、誰もが加害者であり、被害者である。弱いものは、なるべく目立たないように一日をやり過ごす。夕飯、一家団欒のお供は7時のニュースというのが我が家の決まり。バラエティやアニメが見たいがしょうがない。テレビの政治家に文句を言っている両親と黙々と食べる私。丁度良い、学校の楽しい話などないのだから。さっさと食べ終えて、部屋に籠もる。他に逃げ道があっただろうか。
生活する上で何不自由ないこの街は、持続的な未来を想起させる反面、「今の状況が永遠に変化しない」という最悪な予感を抱かせる。
義務教育を終え、市外へ進学する。やっと地元を離れられる。絵の勉強をして、美大に入って、実家を離れて−−。随分遠くまで来た気がするけれど、これは単なるモラトリアムかもしれない。いずれは”モデルハウス”を買うために働くのだ。結婚して、また郊外に住んで、子供を生んで、その子供が小学校に入って、その繰り返し。
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久しぶりに実家に帰る。
東京の端から端まで電車に揺られていると、車窓から見える景色にウンザリしてくる。所狭しと「生活」が軒を連ねているから。どこへ行っても同じなのだと思わされる。
地元の駅から実家まで歩く道。川は相変わらず深緑に濁っている。ちょうど小学校の入学式だったようで、子供を連れた親御さんを何組も見かけた。
「生活」が生まれる限り、川は濁り続けるだろう。仕方ない、そういうものなのだ。
一層の事、街が廃れていれば良かったのに−−。
『交接が 親子の間にものを言わせる仕掛けになってはいないんだから 地球の上がマンネリズムである それみろ 生まれるんだから生きたり 生きんるんだから産んだり』
山之口貘, マンネリズムの原因 より
『僕が人生で失う物は−
家族計画、文化的でスポーティな休暇、文化人の図書館、運動、養子を迎える法、生徒父兄会、教育、0歳から7歳、7歳から14歳の教育、花嫁教育、兵役の義務、ヨーロッパ、勲章、孤独な女、有給病気、無給病気、成功者、高齢者優遇税、設備地方税、一時手当、テレビラジオ料金、消費クレジット、家屋修理、スライド制契約、付加価値税』
ロベール・ブレッソン, たぶん悪魔が より