Kouki Aiba 1. それから(笛をふく一真くん): August 03, 2020

CONTEXT:

ひとつのイメージではなく、連続したイメージで伝わることに前から興味がある。

その興味は割と単純な、例えば漫画のコマみたいな、いわば前後の文脈のようなもの。

このやりとりを始めるにあたって黒岩と相談していて、そういった連続性をもっと拡大してとらえるという話をした。

連なったイメージは、時間や場所、もしくはその人の成長や変化、個性についての表現になりうるという話だった。

でもこのやりとりがそんなものまで読み取れるものになるのかよくわかっていない。発見や刺激があるはずだとは思っている。

 

 

最初の投稿として射程を広くとってみようと思い、たまたま実家にあった絵を撮影。

はじめは新しく絵を作ることばかり考えていたけど、最初の投稿に設定した「それから」というテーマとも相性がいいので昔の絵に決めた。

記憶にない絵を自分の絵として公開するのも妙だけど、名前も書いてあるし。

とはいえあまりに投げやりなのでメモを含めてみた。

成長ってなんだろうとか、成長していなくても変化はしていたいとか考えた。

 

フランツ・カフカ「変身」

 

Masaaki Kuroiwa 2. 失われた環: August 10, 2020

CONTEXT:

Missing-link (失われた環)

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生態系や進化論の話では実感が沸かないので、一旦、個人の成長や記憶の堆積といったミクロな視点において考えてみる。そこにも“失われた環”らしい欠落があるのではないか。

例えば、私が“今”に至る理由を遡って観測してみると、純粋な連続性を感知していた(つまりA→Bへの変化を五感によって捉えていた)と確信できるのは、せいぜい3秒前の事象までで、それ以降(前)を見渡すと、もっと意味付け/言語化された“シーン”の数々が断片的に蓄積している印象がある。

過去や未来を想起することは、文脈を持ってそれらの“シーン”を掻き集め、切り貼りし、並び替える作業に他ならない。
しかしその際、どうやっても連続性を形成できない状況下に置かれた経験はないだろうか。

我々は、事象を時間/空間/数字などの“連続的な概念”に基づき(あるいは囚われ)、管理/保存している。だから連続性を欠いた状況は「超自然的」だと判別してしまう。それに対し、欠落を補うような修正を加える(嘘を付く)か、あるいは忘れただけだと納得するか_最悪の場合、どう処理したか無自覚ということもあり得る。
こうした領域はまさに個人が内包する『Missing-link(失われた環)』だと言える。

もし“世界”に対して何らかの潜在的な神秘を期待し、観測から零れ落ちた領域を詮索しようというのなら、どうしようもないほどグロテスクな“見落とし”の発見を覚悟しなければいけない。

Kouki Aiba 3. 血の轍: August 19, 2020

CONTEXT:

家族と接していて、もう忘れていたような過去の自分の嫌な部分を垣間見てしまうことがある。
それはとても嫌だけど、同じものを確かに自分も持っていると認めるざるを得ない。

親の敷いたレールに沿わないつもりがいつの間にか同じ轍を踏んでいる。
この事とは度々向き合わなくてはいけないと思っている。

☻家族写真は作り物感があって奇妙だなと思う。一度、無理やり家で家族と撮ってみたことがあるけどやはり不思議だったのを覚えている。
写真館の人に言われたであろうポーズや表情は素敵で、家族はひとつの素敵な関係性だと思う。ただ実際の家族はめちゃくちゃに厄介な事態になることも多い。その背と腹を表現するのにいろいろと迷った。
血(血管)らしさとして、線とグラデーションを用い、暗い色を背景にして奇妙な絵になった。

生命が始まってから今までのことも考えていたので、もっとぐにゃぐにゃな感じも想定していたけど身近な問題としてとらえ親の色が子にまざるという単純なものに落ち着いた。
(遺伝か環境か、家族についてのさまざまな社会問題について、などを扱ったものではない)
もっと広い意味での家族をテーマにしてもよかったなとも思う。

 

田中一光 資生堂の広告

 

キース・へリング「ウッドフル病院の外来診療のロビー壁画」1986

Via Art Nerd New York

 

パブロ・ピカソ「悲劇(海辺の貧しい家族)」 1903

 

フィンセント・ファン・ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」1885

 

 

↓↓Process of work↓↓

Masaaki Kuroiwa 4. Kとお月さま (カーテンのある風景): August 29, 2020

  • acrylic painting, canvas, 530 × 455 mm

CONTEXT:

実家のソファの座面を開くと、そこには分厚い西洋美術の画集が数十冊のシリーズで敷き詰められている。

幼い頃、休みの日にはそれを広げて延々と眺めていた。美術史の名だたる面子が揃う様は圧巻で、「これが家宝よ」という母の冗談にも説得力があった。

当時なんとなく好きだった“お絵描き”に、“美術”の意識が芽生えた原因は、その“家宝”によるところが大きい。一冊ごとに一人が特集されていて、子供ながらに「色々な描き方があるんだな」とか「この画家が好きだ」というのがあった。
また同時に、これだけの絵が描けなければ“絵描き”としては生きていけないのだと思うようになった。

20年を経て、みんながみんなゴッホやピカソを目指すわけではないとわかったが、それでも“絵画”に対しては未だに畏怖の念がある。そこへの憧れが出発点だったはずなのに、私が作るものは一度だって、思い描いている“絵画”に接近できたことがないから。

キャンバスに魅力的な絵を描けなければ(絵心がなければ)他のどんな表現でも本当に美しいものはつくれない—

デザインの仕事をするとき、写真を撮るとき、イラストを描くとき、いつもこのことが思い起こされる。

Kouki Aiba 5. 白旗 (Drawings in a day): September 10, 2020

CONTEXT:

昔から絵がヘタで、なんなら避けていたところがある。
だからといって例えばデザイン的な構成や文字が得意かと言われればそんなことはないし、
なんなら絵の上手さは確かにデザインの良さに影響しているという実感があるほどだ。
(「絵が上手」とか「デザインが良い」というのは個人的な感想として)

なので自分の凡庸さ・つまらなさをずっと抱えてなにかを作っている。
正直それに向き合うのはつらいけど、
くだらない絵を公開することによって白旗を振り、覚悟をして生きようと思う。

自分の矮小さを引き出すために決めたのは以下の通り

●その場で思いついたものを名刺サイズに描く
●画材はあまり馴染みないもの(今回はエアブラシ、パステル、クレヨン)
●途中でやめない。なにかを参照もしない。
●描いたものは選定しないですべてボードに置く。

完成を見てみるとやはり小狡い部分がある。小手先に頼って少しでも良く見せようとしていて覚悟が足りない。
しかしくだらない絵なのは間違いなく、降参して受け入れるほかないとあらためて思う。