11. イメージのスクロール(街)あるいは、創作に関する態度について: November 17, 2020

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CONTEXT:

その1 「クラシックを演奏する」「古典落語を演じる」「レシピを元に料理する」→考えてみればそれは、個性や技術を抽出するようなところがある。「説明書を読んで立てたはずのイケアの棚がちょっと曲がっている」というのはちょっと違う話。

その2 他に抽出されるのは例えば態度とかだろうか。ジュリアン・オピーが自分の絵について「対象を単純化しているとかではなくて、対象に必要な要素を取り出している」みたいなことを言っていて共感した。それも態度みたいなことだろう。

その3 googlemapのストリートビューがおもしろい、全然知らない場所に住む人たちの生活に近づけて。世界のいろんな建物をスクショして、できるだけ誠実な態度で絵にしてみた。絵は絵でおもしろいけどストリートビューにあったおもしろさはどこかへ行ってしまった。

その4 住んでいる近所の建物が気づくと更地になっていたりしたとき、そこにあった建物が思い出せないことがよくある。なんとなく思い出せないとかじゃなくて全然思い出せないときがあって怖い。ちゃんと覚えている人もいるだろうし、その人にはこの横に長い絵も違って見えるんだろう。


JULIAN OPIE  [Tunnel 5.]  2017

https://www.julianopie.com/music

 12. 観光写真: November 26, 2020

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CONTEXT:

祝日・紅葉・GoToトラベルキャンペーンの三拍子が揃った京都には大勢の人がいて、皆がみなカメラを首から下げていた。これほど多くの人々がカメラを持っている(スマートフォンよりは良い写真を残したいと思っている)ことに驚く。人の波に押し流されながら、特定の撮影スポットでシャッターを切る様子は、『ポケモンスナップ(任天堂64)』を想起させた。

そのカメラ、〇〇ですね!私も☓☓のレンズで京都を撮りたいと思っているんですよ。
知らない人から声をかけられた。大仰な望遠レンズを紅葉に向ける人、着物でポートレートを撮る人、結婚式の撮影隊、修学旅行生、そして私を含め、それぞれが京都のポテンシャルに期待している。

ところがいざ撮ろうと思うと、いくつかの葛藤が生じる。ここに記すのは、観光における撮影でいつも感じていること。

●撮影者は互いに、他人が写り込まないタイミング・構図を探っている。すぐ横に大勢いる中で撮った無人の情景とは一体何なのか。

●特有性の高いモチーフや体験の価値はそのまま写真の価値にはなり得ない。例えば目前の美しい庭園に惹かれてシャッターを切った際、それは「美しい写真」でなく「“美しい庭園”の写真」になってはいないか。

●同じ位置で同じ写真を撮るために並ぶなんてどうかしている。画像検索で大量にヒットするその写真を、なぜまた撮る必要があるのか。

●観光の記念であることを忘れてはいけない。旅情から切り離されたまなざしで撮っていないか。

 

01. 四条大橋 / 02-03.京セラ美術館 / 04-05. 延暦寺周辺 / 06-07. 高台寺 / 08.永観堂 / 09. 水路閣 / 10. 京阪電車 / 11-12. 京都市内地下道 / 13. ビジネスホテル / 14. 鴨川 / 15-18.京都河原町駅から八坂神社 / 19-21. 河井寛次郎記念館 / 22. 延暦寺周辺 / 23. 三千院 / 24-25. 奥比叡ドライブウェイ周辺 / 26-27. 行きの新幹線

 13. 力加減と個性についてのある見解: December 21, 2020

CONTEXT:

自分らしさみたいなものにそれとなく自覚がある人は多いと思う。それは生活にしっかり影響している。
「朝はパン派」とか「本好き」とか「休日はアウトドア」とか。
そういったものを知らないうちに押し付けられたり不自然に獲得してしまうこともあって気をつけないといけないなと最近思うようになった。いや今回はそんな話をしたいわけではなくて、アイデンティティというより作風について。

作風といって思いつくのは「影響を受けたカルチャーは?」とか「好きなアーティストは?」とか「幼少期の印象的なエピソード」などなど。そういう話を聞いて「ああこの絵はそれでこういうテイストなのね」とか変に納得したりする。

そもそも、このしりとりみたいなやりとり(当webサイト)の仕組みもそういうことへの興味を反映している。(突然なにかつくるのではなくて、ひとつ前の投稿に呼応する。そのうえで、どういった文脈で成果物が出来上がっているのかわかったらおもしろいから説明してみてもいいよねというような)

でもこれも大雑把な解釈であって、作るものに影響を与えているのはもっと些細なことのほうが要素として大きいかもしれない。そのひとつは、生活におけるちょっとした力加減とかじゃないかと最近は思っている。

生活の力加減はあまり意識されないが、力加減には最弱がある。ボタンなら押せるぎりぎり、これ以上小さい力では押せない力加減。大抵は最弱よりも強い力を使うけれど慣れたものは小さい力で扱っている。例えばスマートフォンを操作する指の力加減とか、かなり省エネな気がする。しかしこれも人によって違うんだろう。

シャッターを切るときにボタンを半分押してピントをあわせる。重要な機能の割に微妙な操作を必要とする機構にびっくりした覚えがある。人の指はやはりかなり繊細に動かせるが、この半押しも難しい人もいるかもしれない(ハルクとか超サイヤ人みたいな)。書道の筆を運ぶ力加減も繊細で、書もそれでかなり変わる。(悟空の書はどんな感じだろう)

繊細な力加減が必要なものの話で、機械のアームで卵を持つのはとてもむずかしいと聞いたことがある。いつもと違う卵を買ったら殻がとても薄くて持って潰したことがある。
たまに物を持てる最弱を試してみる。「ドアを閉める時、後手で最弱の力加減で閉めると数歩歩いたくらいで静かにカチャリとドアが閉まる」みたいなことである。

最弱を基本として、プラスどのくらいの力で物を持っているのか。それはその人らしさ・作風を形作る大きな要素かもしれない。(つまりそれはあとから変えることができる)

 

 14. ポップな衝突: January 17, 2021

  • acrylic painting, canvas, 409 × 318 mm

CONTEXT:

3Dグラフィックが驚異的に進化している昨今、現実の世界をシュミレーションしたPC/TVゲームが数多く作られている。「オープンワールド」と呼ばれるジャンルでは、プレイヤーが広大な仮想空間を自由に動き回ることができ、その世界に配されたNPC(ノンプレイヤーキャラクター)の振る舞いはまるでそこに生活があるかのようだ。
リアリティという点において重要なのは、グラッフィック的な実在感(光、水、肌の表現など)の他に、その世界にプレイヤーがどれだけ複雑に関与できるか、またその関与に対してどれだけ正しい反応があるかということだと思う。しかし、これら2軸の表現力には大きな差があって、最先端のグラフィックを用いた実写のような世界にあっても、「拾えるもの/拾えないもの」「壊せるもの/壊せないもの」「行ける場所/行けない場所」などは未だにゲーム的な“お決まり”に制限されている。物と物の干渉にしても、「物理演算」や「当たり判定」といった処理が完璧になされることはなく、現実で想定される挙動とは程遠い。

けれど、そうした「できる/できない」の機械的な線引きが、時に知的でユーモラスな結果をもたらしてくれる。例えば人間の「手」について。手で物を掴むとき、現実であれば5本の指の曖昧な動きによって、物に触れた状態になる。しかしゲーム空間の人間が、物の形に合わせて5本の指を動かすのは結構大変なこと。できなくはないのだろうけど、実際は不自然じゃない程度に簡単な動きになる。たった一つのモーションでどんなものでも掴めたりする。(物と指が触れていない!)
PC/TVゲームの空間はあらゆる場面にこうした不合理が見て取れる。一見するとバカバカしいのだが、視点を変えれば、うまく抽象化された世界とも言えるかもしれない。仮想空間を構築する際の取捨選択という点で興味深いし、他の表現にも活用できないだろうか。

 15. イメージをあつめてそれを見る: February 28, 2021

CONTEXT:

絵を作る時に「どうしたらどう見えるか」を考える。といってもわかりやすくしようというより、ぎりぎりわからないくらいを目指すことが多い。そこにはエラーやはずれを楽しむという邪な気持ちがある。

どうしたらどう見えるか。今回はイメージの集合と認知について考えた。

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視覚失認症-見えている物が何かわからない-重野幸次
認知を失うことについて。

「散歩する侵略者」イキウメ
地球侵略のために「概念」を収集する(地球人から奪う)宇宙人。重要な概念を失った人は生活がままならなくなる。なにかを認知するための下敷きになっているものはなんだろう。
車という概念を失っても(知らなくても)数枚の絵から「移動するものだ」などの認知はできる。(→当たり前だけどイメージの集合は認知に関する小さな要素にすぎない)

 

 

 16. ユートピアの表象: March 14, 2021

CONTEXT:

単純な球や立方体で形成された造形には「〜らしいもの」というニュアンスがあって面白い。感情や表情を失って、概念だけが残るような感じ。

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3DCGの空間にローポリゴンのオブジェクトを並べる。
将来的にどこに住みたいか、どう暮らしたいかという妄想を指針にしてモチーフを選んだら、私にとっての理想郷らしいものができた。一般的な家とはだいぶ違うけれど、あとは本棚とシャワーとベッドがあれば言うことなし。(欲を言えば庭も欲しい)

生活と制作、発表の場が渾然一体となった空間に住めないだろうかと考える。

 17. ない今・ある未来: March 30, 2021

  • 「昔のLEGOで遊ぶ子(仮)」 oil painting on iPad

  • 「家族(仮)、TSURUYA軽井沢店 」 oil painting on iPad

CONTEXT:

近ごろ実家に滞在しているから、子供のこととか老いについてとか考える。自分のできることが増えるにつれて親は色々なことが不自由になっていく。大人になるほど家族の出来事が古くなる。それについて「“家族”が年をとった」と思うようになった。対照的に、小さいこどもを連れた友達に会ったりすると、家族の開けた未来を感じる。

それはどこかで家族について、過去を重ねて見ているからかもしれない

じゃあ自分に子供がいるようになれば「家族」は若返るのかと言われればそんなことでもない気がする(親はいきいきするのかもしれないけど。いや別にいきいきしてないわけでもないが)

子供がいたらなんて考えてしまうのは、平穏な過去のリバイバルを期待しているのかもしれない。

友人たちが続々と結婚するのを聞くと、みんながみんなそんなリバイバルを望んでいるような気がしてくる。多様な幸せや生き方があってしかるべきだと思うけれど、そうしたい人は思っているより少ないかもしれない。

いやしかし、そんな再上映をうっすらと望んでいるかもしれない自分に気づいてぞっとした。


ipadで油絵について
いろんな絵画作品が記憶にあるけど、実物をみたことはほとんどない。本やネットの画像で見たものがほとんどだし、稀に実物を見ると今まで知っていたものが本当に写真でしかなかったことに驚く。
だから本などで絵画作品を見る時、世界のどこかに本物がある事を前提に見ているところがある。

ipadのアプリの油絵のブラシを使うと、油絵らしきマチエールがかける。でもこの絵にはずっと偽物という感じが残っている。レイヤー分けもできるし巨大な筆も使えるし筆を洗うこともなければ混色も自由。逆に、筆致や絵の具の厚み、キャンバスの厚みや額、なんならサイズも実在しない。この絵の本物を探してもどこにもない。

でも実際の今は、ディスプレイで見た視覚作品のほうが圧倒的に多い。インターネットにある膨大なイメージの行く先を考えると、それはどこか所存なさげに見えてくる。その様子はあり得た今を想像したり、自分の未来や老い先を考える感じと似ている。

 

DAVIDHOCKNEY [UNTITLED,456]2010
↑ホックニーがipadで絵を描いていたなと思い出して、はじめてみたipad油絵。とてもおもしろかった。

 18. パーティーにはマンネリズムが巣食う: April 26, 2021

  • Charcoal drawing 500mm*650mm

CONTEXT:

地元について考え出すと、どす黒い感情が頭をもたげて、気分が落ちてしまう。厭世的すぎるかもしれないけれど、なるべく正直に向き合ってみようと思う。

 

私の実家は千葉県市川市。都心まで3、40分の所謂郊外にある。
小学校、中学校、デパート、図書館、映画館、病院、駅。必要なものは家から1キロ圏内にすべて揃っている。まるで、『健康で文化的な最低限度の生活』とでも言いたげな街。ある時ふと、「そうか、ここは人間の“巣”なのだ」と思った。

 

↓↓↓思春期の回想↓↓↓

街を流れる深緑色の川が悪臭を放つ。いつものことだから、誰もあえて口にしない。小さい公園と大きな住宅展示場。小学校にいる1000人の子どもたちは、放課後デパートやマンションで遊び、その大半が300m先の公立中学校に進学する。成熟するヒエラルキー。部活動の朝練では、顧問が生徒を罵倒し、授業では生徒が教師を無視している。いじめが蔓延する校内において、誰もが加害者であり、被害者である。弱いものは、なるべく目立たないように一日をやり過ごす。夕飯、一家団欒のお供は7時のニュースというのが我が家の決まり。バラエティやアニメが見たいがしょうがない。テレビの政治家に文句を言っている両親と黙々と食べる私。丁度良い、学校の楽しい話などないのだから。さっさと食べ終えて、部屋に籠もる。他に逃げ道があっただろうか。
生活する上で何不自由ないこの街は、持続的な未来を想起させる反面、「今の状況が永遠に変化しない」という最悪な予感を抱かせる。

義務教育を終え、市外へ進学する。やっと地元を離れられる。絵の勉強をして、美大に入って、実家を離れて−−。随分遠くまで来た気がするけれど、これは単なるモラトリアムかもしれない。いずれは”モデルハウス”を買うために働くのだ。結婚して、また郊外に住んで、子供を生んで、その子供が小学校に入って、その繰り返し。

 

久しぶりに実家に帰る。
東京の端から端まで電車に揺られていると、車窓から見える景色にウンザリしてくる。所狭しと「生活」が軒を連ねているから。どこへ行っても同じなのだと思わされる。
地元の駅から実家まで歩く道。川は相変わらず深緑に濁っている。ちょうど小学校の入学式だったようで、子供を連れた親御さんを何組も見かけた。
「生活」が生まれる限り、川は濁り続けるだろう。仕方ない、そういうものなのだ。
一層の事、街が廃れていれば良かったのに−−。

 

『交接が 親子の間にものを言わせる仕掛けになってはいないんだから 地球の上がマンネリズムである それみろ 生まれるんだから生きたり 生きんるんだから産んだり』
山之口貘, マンネリズムの原因 より

 

『僕が人生で失う物は−
家族計画、文化的でスポーティな休暇、文化人の図書館、運動、養子を迎える法、生徒父兄会、教育、0歳から7歳、7歳から14歳の教育、花嫁教育、兵役の義務、ヨーロッパ、勲章、孤独な女、有給病気、無給病気、成功者、高齢者優遇税、設備地方税、一時手当、テレビラジオ料金、消費クレジット、家屋修理、スライド制契約、付加価値税』
ロベール・ブレッソン, たぶん悪魔が より

 19. 踊るように描く: May 25, 2021

CONTEXT:

とは言っても最近は対立や分断にうんざり気味だったりする。
それぞれのイズムとか立場が対立した結果、いい感じの着地点を見つけて色々が良くなるわけじゃなく、ただただ溝が深まっていくだけのように見える時がある。
もちろんそういうものを冷笑したりせずにしっかり向き合って考えることが楽しいし大切なことだとは思う。

でもたまに、複雑なことを考えたりとかするよりもっと気軽に暮らしたほうがいいなとか思う。そんなことを思ってはそれを否定してを繰り返している。


そういえばただ作りたいものを作ったり、楽しいだけで絵を作ったりすることがめっきりなくなったような気がする。(ラスコー洞窟の壁画を描いた時その人はどんな気持ちだったのか)


パーティーを抜けたら何があるのか。それがなにであれ、ちゃんと進めば見えてくるものがあるかもしれない。今は人が多くてよく見えない。

 20. I’m looking into the far distance. (私は遠い目をしています。): November 07, 2021

CONTEXT:

高2の夏、土曜の午前10時頃。
ひとり最寄り駅から高校へと歩く道すがら。
なにか考えを巡らせるべき、
悩みごと、楽しみ、競争や向上心、対立の一切が浮かばなかった。
空虚すぎるかもしれないが、
味わったことのない、異常に穏やかな気分だった。